千葉ゆかりのあの人に聞く Chibaの魅力

Vol.3:菊池ハルカさん
(ミュージシャン)前編 

千葉から世界へ! 音楽と向き合い、家族と暮らすということ

千葉出身で現在はアメリカ・ニューオリンズにてジャズトロンボーン奏者として活躍中の菊池ハルカさん。現在はご主人さん、小さいお子さんの三人で生活しています。そんな菊池さんに、これまでの活動のこと、千葉のこと等、ビデオ通話でたくさんお話いただきました。

菊池ハルカ(きくちはるか)
千葉県柏市出身。高校入学と同時にジャズ発祥の地、ニューオリンズの音楽と出会い、ジャズトロンボーン奏者を志す。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業。大学時は、早稲田大学ニューオルリンズジャズクラブにも在籍。2013末に渡米、現在はアメリカ合衆国ルイジアナ州ニューオリンズ市で活動。ジャズを中心に、多ジャンルのバンドを掛け持ちしている。ツアーで訪れた国は10カ国以上。2018年、マルディグラ・インディアンCha Waのメンバーとしてグラミー賞ノミネート。

――本日はよろしくお願いします!まずは、菊池さんのこれまでの活動についてお伺いしていきたいと思います。音楽に出会ったのはどういうきっかけだったのでしょうか?

母親が小さい頃、ピアノを弾ける女の子に憧れていたらしいんです。でも自分は習うことが出来なくて、娘が出来たらピアノを習わせようと思っていたみたいで。長女の私は3歳になるまでにはピアノを習わせてもらっていたんです。おかげさまで私自身も音楽が好きで、小学生の時は金管バンドに入って、という感じでそのまま音楽を続けていきました。

それで、私は出身が柏市なんですけど。中学生の時は「柏の学習院」って呼ばれていた(笑)、でも公立なんですけど、柏市立中原中学校というところに通っていて。そこには当時校舎の近くに「乗馬クラブ」があったんです。

――乗馬クラブ!めずらしいですね。

その乗馬クラブの歴史が長すぎて、当時中原中には吹奏楽部がなかったんですよ。楽器の音で馬がびっくりしちゃうから。

だから中学生の時は管楽器を吹いていなくて。高校は千葉県立東葛飾高等学校というところに入学するんですが、その前に友人のお誘いで東葛飾高の吹奏楽部の定期演奏会を見に行ったんです。

その定演の休憩時間に、ジャズバンドが演奏していたんですね。ジャズって当時、よく分かんなかったんですけど、なんだか楽しい! ディズニーランドみたいな音楽をやってる、小編成のバンドもあるんだ! と思って。

――それが「ジャズ」との最初の出会いだったんですね。

それで入学したら、東葛飾高って私服校なんですよね。当時千葉県の公立で私服の高校と言ったら、東葛飾高と小金高校というところしかなくて(編集部注…小金高校は2011年に制服が再導入されているようです)。自由な校風で、一般の方が散歩で普通に校庭に入って来られたりしていました。地元の人には近道として母校の校庭が使われていたみたいです。

だから普通の人が敷地内に当たり前にいる感じだったんですけど、その中に青木研さんというバンジョー奏者がいまして。スタジオが高いからといって、高校の敷地内で練習されていたという(笑)。

――そんなことができたんですね(笑)。確かに、自由な校風が伝わってきます。

青木研さんもジャズミュージシャンで。「あ!あの時の定演で聴いたような音楽だ!」と思って、あの人は誰なんだろう、でも明らかに高校生じゃないよな……と(笑)。

でも、気になりすぎて話しかけてみたら、ギターと似ているけど少し違うバンジョーっていう変わった楽器のこと、ディキシーランド・ジャズっていう、それこそディズニーランドで流れているような、陽気な音楽のことを教えてもらったんです。

もしこういう音楽に興味があったら、トランペットとかトロンボーンとか、サックスとか、そういう吹奏楽部にあるような管楽器を練習するといいよ、と言われて。小学生の金管バンドでは少しだけトロンボーンをやっていたので、もう一回やってみようかなと思って、高校一年生の時にまた部活でトロンボーンを演奏するようになりました。

その後も青木研さんからは、ジャズはニューオリンズで生まれた、というような歴史を教えてくださったり、おすすめのCDとかをいただいたりして。部活とは別に、そんな流れでジャズも学んでいきました。

――素敵な出会いですね……!

東葛飾高からは、他にも先輩には渡邉恭一さん、後輩には田村麻紀子さんという、私と同じような音楽をやっているプロのミュージシャンを輩出しています。ジャンルは全く違うんですけど、サンプラザ中野くんの出身校でもあります。

――なんだか、すごい場所だったんですね。大学を卒業した後も、数年は日本で活動されていました。その頃についてもお話いただけますか。

私が卒業した東京藝大は当時、就職率が2%とかだったんですよ。

――2%!? 2割とかですらないんですね……

そう、みんな就職しない。それで好きなことをするという雰囲気で、一方では当時就職難というのもあって。でも他大学の友人たちはどんどん就職を決めていくのも見ていて、とにかく今すぐじゃ決められない! と思っていました。

就職活動みたいなものも一応してみて、映画の配給会社の面接に行きました。そうしたら、会社の人から「他にやりたいことがあるのなら、就職せずにそっちをがんばりなよ」と言われたんです。「好きなことを仕事にしたら良いよ!」と言われて、ああそれでいいんだ、と思えて。

結局就職活動はやめて、音楽活動をやろうかな、と決めました。

――その後2013年の末にニューオリンズへと移住されますが、それを決めたきっかけは何でしょうか。

私、東京藝大とは別に早稲田大学のジャズサークル「ニューオルリンズジャズクラブ」にも入っていたんですけど。世界でも唯一、ニューオリンズのジャズを研究する大学サークルで、毎年冬にリサイタルをするんですね。

2013年の春に、当時の現役生から今年のリサイタルのゲストとして出演しませんか、という依頼をいただいたんです。当時、ハロバンドというバンドを組んでいたんですが、それで出させてもらって。

このリサイタルのゲストって、本場ニューオリンズのミュージシャンだったり、日本で長年プロとして活動されているベテランの方だったりが、毎年のように呼ばれているんです。そんなところに出られるなんて、こんな光栄なことはないなと思って。「早大ニューオリ」のリサイタルに出ることが、自分の中で一つの大きな目標だったので。

これを区切りとして、日本を離れて頑張ってみようと決心したんです。

それと、その2年前にあった東日本大震災が、自分の人生をいろいろ考えるきっかけになったのかなと思います。震災の翌月の20114月、ニューオリンズで毎年行われるフレンチクオーター・フェスティバルへの出演がもともと決まっていて。

ニューオリンズは2005年に「ハリケーン・カトリーナ」により甚大な被害を受け、そこから復興していったという経緯があるんですが、いろんな繋がりをそこに感じて。この街をもっと知りたい、そう思えてきたんです。

老舗のライブハウス「プリザベーション・ホール」の前にて。昔の写真を再現した、素敵なペインティングが施されています!

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